[翻譯] 森のくまさんの謎 文章前半

看板NIHONGO作者 (suitit)時間9年前 (2015/03/22 20:28), 編輯推噓2(206)
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因為看了「まるまる妻」而認識「森のくまさん」這首童謠 進而發現這篇有趣的文章,讓我有動力想獻出人生第一篇正式的翻譯,增進日語能力 大家如果也知道一些有趣的短篇文章,歡迎分享原文給我 說不定又能開啟我下一篇翻譯 這篇文章是空有剛到手的N1證照,實際能力很差的我耗時很多天 以紙本字典、GOOGLE翻譯、網路文章GOOGLE、GOO網路辭典查找而完成 原文於此:http://www1.odn.ne.jp/mushimaru/bakaessay/bear.htm 本文以一句原文一句翻譯文的方式呈現,因文章冗長而分成兩篇 ppt文章排版無能,造成觀看不舒適請見諒 想請大家就各個方面做條列式改進建議,或者逐句的翻譯錯誤指正也可。 1.はじめに 前言  まず、「森のくまさん」(作詞:馬場祥弘)なる童謡の歌詞を提示する。 首先,讓我們來回顧一下「森林裡的熊先生」(作詞:馬場祥弘)這首童謠的歌詞。 (以下歌詞關係到後面論述內容,因此不作翻譯) ある日森の中 くまさんに 出会った 花咲く森の道 くまさんに 出会った くまさんの 言うことにゃ お嬢さん おにげなさい スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ ところが くまさんが あとから ついてくる トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物 白い貝がらの 小さな イヤリング あら くまさん ありがとう お礼に うたいましょう ラララ ララララ ラララ ララララ  ここで明らかにすべき最大の謎とは、「くまさん」の不可解な行動である。 在這首歌裡明顯應該被提出討論的最大謎團是「くまさん」那令人費解的行為。 なぜ、「お逃げなさい」と言っておきながら、「ついてくる」のか。 為什麼在說出「請趕快逃」之後又「追了上來」。 落とし物を渡すために「ついてくる」というほど親切であるのなら、なぜ「お逃げなさ い」などと言うのか。 如果這麼親切地為了歸還掉落物品而「追了上來」,到底為什麼會說出「請趕快逃」這樣 的話。  本稿では、この謎について能う限り論理的に考察してみたいと思う。 本文將針對這個謎團做最有說服力的理論探討。  まず一般に流布しているのは、「どっちもバカ説」である。 首先,坊間流傳著「兩者都是笨蛋說」。  くまさんは襲いかかりそうになっていながら、落とし物を見た瞬間に、自分が「お逃 げなさい」と言ったにもかかわらず、「お、落としてるがな、こらいかんがな」と追い かけてしまうのである。 看到掉落物品的瞬間,「くまさん」像是要攻擊人似的,也不管自己已經說了「請趕快逃 」,想著「啊,這是她掉落的東西吧,不還她不行」,趕緊追了上去。 また、娘の方もイヤリングを受け取るなり、食われそうになったことを忘れて、お礼に 歌うなどと悠長なことをしてしまうのである。 還有,女孩竟然忘了「くまさん」像是要吃了她的模樣,收下自己掉落的耳環之後,還為 了感謝而唱起了歌。 少なくともイヤリングを受け取ったら、即座にきびすを返して逃げるべきであると思わ れるのに、である。 再怎樣也應該在收下耳環之後轉頭拔腿逃跑才對吧  たしかに、こう考えるといずれ劣らぬバカではあるが、一応つじつまは合う。 確實,這麼一想,她是笨蛋這件事還滿有道理的。 そして、どちらかといえば小娘の方がバカ度は高い。 而且,要比誰笨的話,小女孩更笨一些。 呑気に歌っているバカ娘を見ている間のくまさんの心中が思いやられる。 看著歡快歌唱的笨女孩,「くまさん」心中應該如此想著。 「何をのんびり歌とんねん。こいつ食われてもええんか」 「妳在這悠閑唱什麼歌啊!被吃了也沒關係嗎」  とはいえ、これがおそらく順当な解決案のひとつとして一般には流布していると思わ れる。 話雖如此,但這應該是坊間流傳的最合理的一個看法。 すなわち、両者の心中を簡潔に書いてみると恐らく以下の展開になる。 意即,若簡單描寫一下他們的內心,劇面可能如下發展。 くまさん「食うのは忍びないので逃がそう」 くまさん:「我不忍心吃你,快逃吧」 お嬢さん「きゃー」 お嬢さん:「啊-」 くまさん「お、イヤリング落としてる。これは返しといてやろう」 くまさん:「啊,她的耳環掉了,拿去還給她吧」 お嬢さん「あら、拾ってくれるということは、安心していいんだ。お礼に歌おう」 お嬢さん:「哎呀,竟然特地撿起來還我,那我可以放心了,唱首歌作為回禮吧」 くまさん「アホかこいつ」 くまさん:「這傢伙是笨蛋嗎」  しかしながら、私はこの説を支持しない。 然而,我並不支持此說。 万物の霊長たる人間であろう「お嬢さん」の頭が悪すぎる。 身為萬靈之長的人類,這位「お嬢さん」頭腦也太差了。 ましてこれは日本中の子どもが口ずさむ童謡である。 更何況這是一首全日本兒童都朗朗上口的童謠。 子どもたちがこのバカ娘の真似をして、森で出会った熊の前で歌えば助かるとでも思い 込んだらどうするのか。 要是孩子們模仿了這個笨女孩,以為在森林遇到熊時唱歌會有幫助,那該怎麼辦。 「小六、熊に襲われて死亡~なんと逃げずに歌を歌う~」などという新聞記事を前にし て、作者はどう責任を取ろうというのか。 如果出現了「小六生被熊攻擊死亡~為什麼要唱歌而不逃走」這樣的新聞報導,作者該如 何負責。  また、ついで有力とされるのが「別人説」である。 另外,還有一個有說服力的說法「別人說」。 劈頭の二行に注目してみれば、くまさんにであったことが二回も繰り返されていること がわかるが、他にこれほど明らかな繰り返し部分はない。 如果你有注意到開頭兩行歌詞,它其實反覆唱了兩遍「遇到熊」這件事,其它歌詞並沒有 明顯出現像這樣反覆吟唱的部分。 一見奇異な「別人説」は、この部分を論拠にしている。 看似奇怪的「別人說」就是以此為論據。 すなわち、森の中で出会った「くまさん」(以下、くま甲)と、花咲く森の道で出会っ た「くまさん」(以下、くま乙)は別の存在だというのである。 意即,森林中遇到的「くまさん」(以下簡稱くま甲),和開滿花的森林道路上遇到的「く まさん」(以下簡稱くま乙)是兩個不同的存在。  つまり、この説に立つものは、「お嬢さん」は、くま甲に出会って一緒に歩いている ところで、くま乙にも出会い、くま甲が「お嬢さん」に逃げることを促したと考える。 也就是說,此說認為,「お嬢さん」是跟くま甲一起散步的時候又遇到了くま乙,這時く ま甲便要「お嬢さん」快逃。 そして、くま乙を撃退したくま甲があとからついてきたというのである。 然後,くま甲擊退了くま乙之後朝「お嬢さん」追了上來。  この説にも特に大きな矛盾はないが、私はやはり与しない。 此說沒什麼明顯的矛盾,但我還是不認同。 まず、両者の表記がともに「くまさん」というのが、必要以上の混乱を招いている。 首先,把這兩者都用「くまさん」來稱呼會造成不必要的混亂。 子どもが歌うものである以上、少なくとも「くまさんA」と「くまさんB」とか、ある いは「熊田さん」と「ヒグマさん」とか、歌う者に過度の負担を強いない配慮が求めら れるであろう。 既然是小孩子唱的歌,至少要以「くまさんA」和「くまさんB」,或者是「熊田さん」 和「ヒグマさん」來稱呼,才不會造成唱歌的人理解上過度的負擔。 また、5行目の「ところが」にある小さな矛盾も見逃せない。周知の通り「ところが」 は逆説の接続詞である。 還有,第五行的「ところが」有個不能漏掉的小矛盾,眾所周知「ところが」是個逆接續 詞。 すなわち、「お嬢さん」の一人称一視点で書かれているこの歌詞にあっては、これは「 お嬢さん」が「くまさん」のついてくることを予想していなかったということを意味し ている。 意即,以「お嬢さん」為第一人稱的視點所寫出的歌詞中,「ところが」代表著「お嬢さ ん」想不到「くまさん」會追了上來。 くま甲がくま乙を撃退したならついてくるのは当然であることを考えると、「別人説」 を採用した場合、ここは「ところが」ではなく「そのうち」あるいは「ようやく」とす べきであろう。 若以「別人說」的觀點,くま甲擊退くま乙之後理所當然追了上來,那這句歌詞不應該是 「ところが」,而應該是「そのうち」或是「ようやく」。  このように考えると、やはり「くまさん」と「お嬢さん」は、一対一であると考える のが自然であろう。 這麼思考之下,還是把「くまさん」和「お嬢さん」視為一對一的關係會比較自然。 ちなみに、手近の保育園児に聞いてみることも試みたが、父親が必死で説明しているに もかかわらず、彼はついに最後まで「別人説」を理解できなかった。 順便一提,試著問了住家附近的幼兒園小朋友,無論爸爸怎麼解釋,他還是無法理解「別 人說」。  さて、現在学会の主流をなしている「どっちもバカ説」と「別人説」を捨てた今、新 たに私なりの視点でこれらの謎について考察を進めねばならない。 那麼,現在請拋開現今學會主流「兩個都是笨蛋說」和「別人說」,重新以我的觀點來探 討這些謎團。 そこで、疑問点も含めて、「森のくまさん」における要点を以下のとおり整理しておく 。 在這裡,我連同所有疑點,將關於「森のくまさん」的要點整理如下: (1)「お嬢さん」と「くまさん」は「森の中/花咲く森の道」で出会う。 (1)「お嬢さん」和「くまさん」在「森林裡/開滿花的森林道路上」遇到。 (2)「お嬢さん」と「くまさん」の間にバーバルなコミュニケーションが成立してい る。 (2) 「お嬢さん」和「くまさん」之間能夠溝通說話。 (3)「お嬢さん」は「くまさん」に「お逃げなさい」と言われて逃げる。 (3) 「お嬢さん」因為「くまさん」說了「請趕快逃」而逃走。 (4)「くまさん」は「お逃げなさい」と言っておきながら「ついてくる」。 (4)「くまさん」說了「請趕快逃」卻又「追了上來」。 (5)落とし物は「白い貝殻の小さなイヤリング」。 (5) 掉落物品是「貝殼形狀的白色小耳環」。 (6)「お嬢さん」は落とし物のお礼に「うたう」。 (6) 「お嬢さん」以「うたう」作為回禮。  ここから、上記の各点についてそれぞれ述べていきたいと思う。順序に関しては本稿 の構成上多少前後するが、その点はご承知おき願いたい。 接下來,我將就上述幾點做個別論述,論述的順序因本文的結構而多少會有不同,這點請 見諒。 2.「くまさん」と「お嬢さん」  まず、これまで見落とされて来た最重要な点である、言語による会話の成立から述べ る。 首先,我們由先前一直忽略的最重要的點,「對話因語言而成立」來開始說明。  結論を先に書くならば、言語による会話が成立するというのは「くまさん」が人間で あるということにほかならない。 若要先下個結論的話,「對話因語言而成立」意指「くまさん」一定是個人類。 これまで「森のくまさん」を論じる者は、全くその点を見誤っていたといえる。 可以說,到目前為止討論「森のくまさん」的人都看錯了這一點。 あらゆる童謡関連書籍の挿絵が「くまさん」を熊の姿に描いているところからもそれは 明らかである。驚かれる読者も多いであろう。しかしこれは事実である。 就算所有童謠相關書籍的插畫都把「くまさん」畫成一隻熊,這點還是顯而易見的,很多 讀者都感到驚訝吧,但這是事實。  童謡はメルヘンであるから、人間と動物が会話をしてもなんら不思議はないというの は早計に過ぎる。 說「童謠畢竟是童話,因此人類和動物對話並不奇怪」似乎過於輕率。 動物の登場する童謡をいくつでも思い浮かべていただきたい。 請大家想出幾首有動物出現的童謠。 私でさえも即座に、「ぞうさん」「アイアイ」「ななつのこ」「いぬのおまわりさん」 「うさぎとかめ」「おうまのおやこ」「げんこつやまのたぬきさん」「かもめのすいへ いさん」「やぎさんゆうびん」「かわいいかくれんぼ」「はとぽっぽ」「やまのおんが くか」「かたつむり」等々、数多くの童謡が思い浮かぶが、いずれにおいても人間対動 物の会話は存在しない(「ぞうさん」の話者は仲間の動物であると作詞者が証言してい る)。 連我都能即刻想出「大象」、「アイアイ」、「七個孩子」、「狗警察先生」、「兔子與 烏龜」、「馬父子」、「げんこつ山的浣熊先生」、「水手海鷗」、「山羊先生的郵件」 、「可愛的捉迷藏」、「鳩ぽっぽ」、「山野音樂家」、「蝸牛」等非常多的童謠,不管 是哪首都不存在人類與動物的對話(「大象」由作者證實說話者大象的動物朋友)。 唯一の例外は「桃太郎」だが、これは原作があるので特殊な例と思われる。 唯一的例外是「桃太郎」,不過這首有原創書本為基礎,算是特殊例子。  すなわち、一般に童謡においては童話とは異なり、人間と動物の会話は禁じられてい ると考えられるのである。 意即,一般童謠與童話並不相同,人類與動物的對話應該被禁止。  また、「お嬢さん」についても、「ドリトル先生」の親戚であるとも、「ききみみず きん」を装着しているとも、明示・暗示ともになされていないことを考えると、動物の 言語を解したとは思われない。 再來,「お嬢さん」無論是「杜利特爾醫生」的親戚,或是其實戴著「傾聽頭巾」,歌詞 中明示暗示都未提這樣的事情,因此我不認為她能理解動物的語言。  そして、屋上屋を重ねることになるが、「くまさん」という表記も人間説を裏付けて いる。 而且,再提一件加強說服力的事情,「くまさん」這個文字標示也是「人類說」的證據。 なぜなら、この歌詞における「くまさん」は、最後の一つを除いてすべて三人称として 用いられているが、この歌詞のように事実の伝達を主とする場において、禽獣を「さん 」づけで呼ぶことはありえないからである。 為什麼呢,因為這首歌詞扣除最後一個「くまさん」,其它都是以第三人稱的立場被使用 ,在像這首歌的歌詞一樣,以傳達事情經過為主的場面上,不可能用「さん」來稱呼禽獸 。  先日も、元アマレス選手であるという中年男性が、道端で出会った熊を投げ飛ばして 撃退したというニュースが報じられていたが、いずれのメディアでも熊を「くまさん」 と呼んだ例はなかった。 前些日子據新聞報導,有一位曾是業餘摔角選手的中年男子在路邊遇到了一隻熊,他直接 將這隻熊摔了出去。當時不管是哪家新聞媒體都未使用「熊先生」來稱呼熊。 どのTV局でもキャスターは「男性が熊に襲われ……」と言っていたし、新聞各紙も「 この熊は生後数カ月の……」と表現していた。 每一家電視台記者都是說「男子被熊襲擊」,各大報的報導內容也都是「這隻熊剛出生數 個月」。 なによりも、「お嬢さん」同様、森で熊に出会った男性自身がインタビューにおいて「 いや、熊に出会ったときは……」と言っていたのである。「くまさんに出会って……」 とは言わなかった。 最重要的是,這位與「お嬢さん」一樣遇到熊的男子被訪問時說:「哎呀,遇到熊的時候 ……」,而不是說:「遇到熊先生的時候」。 このように、動物の熊を指すものとしての「くまさん」という表現は決して用いられな かったのである。 像這種情況,要指熊的時候絕對不會用「くまさん」來稱呼。  以上で「くまさん」が人間であることは明らかであろう。 由此可知「くまさん」是個人類。  では、「くまさん」とは一体何者なのか。 那麼,「くまさん」到底是誰?  ここではひとまず、「お嬢さん」と「くまさん」の関係について論じてみたい。 文章寫到這裡我們要來討論一下「お嬢さん」跟「くまさん」的關係。 これも歌詞からおおむね推定できるのである。 這點可以從歌詞做大概的推斷。  まず「お嬢さん」にとっての「くまさん」の位置について述べる。 首先,從「くまさん」對「お嬢さん」而言的身分來研究。 ここでもやはり「くまさん」という「さん」づけがポイントになる。 以「さん」來稱「くま」在這裡依然是探究重點。  最初に、歌詞の最後に現れる「くまさん」という呼びかけから考えたい。 我們先來看一下歌詞中最後出現的「くまさん」這個稱呼。 このように路上で突然対面するような場で、我々は通常どのような場合に相手をさん付 けで呼ぶであろうか。 像這樣突然在路上遇到的場合,我們通常在什麼情況下會用「さん」這個稱謂。 まず第一には、相手が知り合いである場合である。これは容易に理解されよう。 第一,對方是你認識的人,這很容易理解。 次に、相手とは会ったことがなくても一見して名前の知れる場合である。有名人に出会 った場合などがこれに当たる。 第二,雖然以前沒有碰到過對方,但是一看到就知道對方姓名,碰到名人即是如此。 つまり、相手の名前がわかっていなければ「あら、くまさん」という発言はあり得ない のである。 也就是說,不知道對方姓名是不可能說出「あら、くまさん」這樣的話。  ではこの歌の場合は上記のいずれに当たるのであろうか。 那麼這首歌是上述何種情形呢? これについても、呼びかけのみならず、三人称においても用いられているさん付けが手 掛かりとなる。 關於這點,撇除打招呼這句不看,作者在第三人稱也使用「さん」,這是個線索。 相手が、会ったこともないのに一方的に名前を知っているような有名人の場合、三人称 でさんづけというのは不自然である。 在對方是個雖然沒碰過面卻知道名字的名人的情況下,將第三人稱加「さん」這個稱呼是 不自然的。 例えば木村拓哉に町で出会ったとして、あなたは後日友人に向かって「キムタクさんに 出会った」と言うであろうか。 例如你在街上遇到了木村拓哉,之後向朋友談起時會說「遇到了木村拓哉先生」嗎? そのような場合は、通常「キムタクに出会った」と言うであろう。 像這樣的場合通常會說「遇到了木村拓哉」吧。  何事にも例外はあるが、町で出会った有名人を別の場所で「くまさん」と呼びうるの は、ゲージツ家の篠原勝之に出会った場合のみである。 凡事都有例外,會讓你用「くまさん」來向別人稱呼所遇到的名人,這也只有在遇見「ゲ ージツ家」的作者篠原勝之的時候吧。  以上の考察からも、この歌の「くまさん」はそのような呼び名を持つ「お嬢さん」の 知り合いだったと考えてよいと思われる。 從以上的探討可得知,會讓「お嬢さん」以「くまさん」稱呼的應該是認識的人。  続いて、「くまさん」にとっての「お嬢さん」の位置を考えてみたい。 接著從「お嬢さん」對「くまさん」而言的身分來研究。  なぜ、知り合いの若い娘を「くまさん」は「お嬢さん」と呼ぶのであろうか。これに ついても二つの可能性が考えられる。 為什麼「くまさん」稱呼這位熟識的年經少女為「お嬢さん」呢?關於這點我認為有兩種 可能性。  第一は「くまさん」が、かなりの年配である場合である。 第一,「くまさん」是個相當年長的人。 例えば、六十歳以上の男性は、喫茶店のウエイトレスをしばしば「お嬢さん」と呼ぶ。 例如,六十歲以上的男性常常會稱呼咖啡廳的女服務生為「お嬢さん」。 私は出張で上京したおり、何度もそれを耳にして心の洗われる思いがした。 我到東京出差時就聽過很多次這樣的稱呼,有種心靈被洗滌的感受。  ちなみに大阪では老若男女地位収入にかかわらず、ウエイトレスは「ねえちゃん」で ある。 順便一提,在大阪無論男女老幼或收入地位,女服務生都被稱為「ねえちゃん」。 東京で年金生活の男性が「お嬢さん、お水をいただけませんかな」と言っているとき、 大阪では大会社の社長が「ちょう(ちょっと、の転訛)、ねえちゃん、おひやくれや、 おひや」と言っている。 在東京,上了領取老人津貼年記的男性會說:「お嬢さん、お水をいただけませんかな」 ,而在大阪的大公司社長會說:「ちょう(由ちょっと轉變而來)、ねえちゃん、おひやく れや、おひや」。  話がそれた。つまり年配の男性は、若い娘に対しては「お嬢さん」という呼称を用い ることが多いのである。 話說至此,總之年長的男性常常會稱呼年輕的少女為「お嬢さん」。  そして、もう一つの可能性が、「お嬢さん」という言葉が地位関係の反映である場合 である。 另外,還有另一種可能性要從「お嬢さん」這個詞所映的地位關係來說。 どこかの会社の課長が社長令嬢に向かって呼びかける場合がこれに当たる。 一般,公司裡的課長會對社長的千金使用這個稱呼。 すなわち、「お嬢さん」の父親が、「くまさん」に対して非常に高い地位にあると考え られる場合である。 意即,可以認為「お嬢さん」的父親對「くまさん」而言地位非常崇高的情況。 この場合、「くまさん」の年齢は考慮する必要がないことも明らかであろう。 這種時候明顯就不需要考慮「くまさん」的年齡。  では、上記の可能性のいずれに当たるのかということになるが、先に「お嬢さん」と 「くまさん」は知り合いであることが明らかになったことを考え合わせると、後者であ る可能性が非常に高い。 那麼,究竟是上述哪一種可能性呢?之前我們已經清楚他們互相認識,綜合這兩點來思考 ,後者的可能性相當高。  この可能性を補強するために、別の根拠を提示しよう。 為了補強可能性,我再提出別的證據。  「お嬢さん」が逃げる様子を思い出していただきたい。 請大家回想一下「お嬢さん」逃走時的樣子。 「お嬢さん」は「スタコラサッササノサ」とかなりのスピードで逃げている。 「お嬢さん」是「三步併作兩步沙沙沙地快跑」,以相當快的速度在逃跑。 にもかかわらず、「くまさん」は「トコトコトコトコ」で追いついているのである。 儘管如此,「くまさん」卻是「慢速咚咚咚」在後頭追著。 リズムこそ小刻みであるが、これはピッチ走法であると考えれば納得がいくであろう。 雖然是節奏這麼小的步伐,但如果想成是短步長距離的速度走法那就有說服力了。 軽快な若い娘の疾走にピッチ走法で追いつく、これは到底六十歳以上の人間の能くする ところではない。 以短步長距離的速度走法要追上年輕少女輕快的腳步,六十歲以上的人是做不到的。 つまり、「くまさん」は若いのである。ゆえに「お嬢さん」という言葉は、年齢による ものではなく、「お嬢さん」の父親との地位関係の反映であるといえる。 也就是說,「くまさん」一定是年輕人。因此,「お嬢さん」這個詞無關他的年齡,而是 反映他跟「お嬢さん」的父親的地位關係。  ここまでで両者の関係がかなり明かされた。いったん箇条書きで整理してみよう。 到這裡他們兩個的關係已清楚明白,我先做個條列式整理: (ア)両者はともに人間である。 (ア)他們兩個都是人類。 (イ)両者は知り合いである。 (イ)他們兩個是互相認識的關係。 (ウ)「お嬢さん」の父親は「くまさん」に対して高い地位にある。 (ウ)「お嬢さん」的父親對「くまさん」而言是有輩分的人 (エ)「くまさん」は高齢ではない。少なくとも青年に匹敵する体力を持つ。 (エ)「くまさん」並非年長者,至少有不輸年輕人的體力。 3.「お逃げなさい」と「危険な場所」  「請趕快逃」與「危險場所」  それでは次の疑問に移ろう。 接下來往下一個疑問點移動。  いわゆる最大の疑問の前半部ともいうべき、なぜ「お逃げなさい」というのか、とい う点である。 來講講這個所課最大疑問點的前部:為什麼要說「請趕快逃」呢?  「くまさん」を熊であると考えた場合のように、「襲いかかろうとするのを自制した ため」というのは、明らかに不自然である。 如同假設「くまさん」是隻熊的情況,「為了克制自己不去襲擊她」這樣的說法明顯是不 自然的。 「くまさん」は人間であるので、この場合は「食う」ではなく、レイプか強盗、もしく はそれに類する行為であろうが、それにしても自然な発言であるとは言いがたい。 「くまさん」是人類,這種情況不會是「吃」,即便是強暴、搶劫或是類似的行為,自己 是難以說出這麼自然的話。 襲うならその場で襲うであろうし、襲うつもりがないのであれば「お逃げなさい」など という必要はない。 若要襲擊就直接出手了,若沒有襲擊的意圖也不需要說「請趕快逃」。  ただ、「くまさん」に変わった趣味があれば別ではあるが。 但是,如果「くまさん」有什麼不尋常的嗜好那就另當別論了。 たとえば、私は小学生のころ、新しいエアガンを手に入れると、たいていすぐに近所の 公園に向かった。 例如,我在小學的時候,一拿到新的空氣槍就會往附近的公園跑。 そして友人を見つけては「十数えてやるから逃げろ」といって、逃げる友人を追いかけ 回したものだったが、やはり「くまさん」の追跡はそのような嗜虐性とは無縁であると 考えるのが妥当であろう。 然後看到朋友就說「我數到十,你快逃吧」,如此來回追著逃跑的朋友,想想「くまさん 」追趕的樣子跟這類虐待狂的行為應該沒有關係。  なぜなら、「くまさん」は、のちほど「お嬢さん」が呑気に歌うのを眺めている。 為什麼這麼說呢,因為「くまさん」追上「お嬢さん」之後隨即看著她歡快歌唱的樣子。 自制して逃げることを強いねばならぬほどの襲う意思や、逃がしてから追跡を楽しむよ うな嗜好などなかったことは明白である。 因此,我們清楚了他並沒有必須強迫自我克制並逃跑的襲擊意圖,也沒有追逐逃跑者的嗜 好。  それと、「お嬢さん」の様子も不可解である。 與此同時,「お嬢さん」的姿態也令人費解。 「くまさん」に「お逃げなさい」と言われてはじめて逃げている。 「くまさん」說了「請趕快逃」之後她才開始逃跑。 ということは、そう言われるまで逃げるつもりはなかった、あるいは逃げる必要を感じ なかったということである。 也就是說,在聽到這句話以前她並沒有逃跑的意圖,或許根本沒感覺到有逃跑的必要。 一見して「くまさん」には危険が感じられなかったと言い換えることもできる。 換句話說,她一看到「くまさん」時並沒有感到危險。 また、追いつかれても恐れるそぶりさえ見せず、お礼に歌ったりしている。 甚至在被追上的時候也不見害怕的表情,還唱歌答謝他。 これも「くまさん」そのものには危険がなかったことを示すものであろう。 這也表示「くまさん」本身並沒有任何的危險。  すなわち、この「お逃げなさい」は、従来理解されてきたような「私から逃げなさい 」という意味ではないと考えられるのである。 意即,我認為「請趕快逃」這句話,並不是我們一直以來所理解的「請逃離我」這樣的意 思。  ならば、「お逃げなさい」とは一体いかなる意味を持つのか。 既然如此,那「請趕快逃」這句話到底是什麼意思? これも通常どういう場面で発せられる言葉かを考えればよい。 這需要從這句話通常是在什麼情況下說的來做思考。 人が他人に向かって「お逃げなさい」と言うとき、必ずやその前には「ここは私に任せ て」という言葉が用いられることに気がつくであろう。 我們會發覺對別人說「請趕快逃」這句話的時候,前面一定附帶了一句「這裡交給我」  つまり、「くまさん」の「お逃げなさい」という発言は、何らかの危険から「お嬢さ ん」をかばおうという意思の発現なのである。 也就是說,「くまさん」這句「請趕快逃」是發現了什麼危險,而要保護「お嬢さん」的 意思。  では、それはいかなる危険なのか。 那麼,那是怎樣的危險呢?  これは、「くまさん」が「お逃げなさい」と言いながら、イヤリングを見つけるやい なや即座に「ついてくる」というところに手掛かりがある。 「くまさん」說了「請趕快逃」之後,又因為發現了掉落的耳環,而隨即追了上去,從這 一點可以發現線索。  たとえば、「別人説」を思い出していただきたい。 例如,請回想一下「別人說」。 あのように新たな熊が現れたような場合であれば、その熊を撃退するまで追跡は不可能 である。 像那樣出現了一隻熊的時候,不可能不把熊擊退就追上去。 それは他の猛獣であっても、暴漢であっても同様である。 就算把熊換成其他猛獸或惡棍也是一樣。 「くまさん」は身を挺して危険を排除せぬ限り、「お嬢さん」の追跡にはとりかかれな い。 「くまさん」不挺身排除危險就不能去追「お嬢さん」。  つまり、その危険とは、「お嬢さん」がその場を離れることで回避し得るものであっ たといえる。 也就是說,所謂的危險是「お嬢さん」離開這個地方就可以避免的。 「くまさん」は、「この危険な相手から」逃げよではなく、「この危険な場所から」逃 げよと言ったと考えるべきであろう。 因此,「くまさん」的話應該解讀為逃離「這個危險場所」吧,而不是逃離「這個危險人 物」。  これは歌詞中に他の生物が登場しないことからも明らかであろう。 這一點從歌詞中並無其他生物出現即可明白。 もしそのようなものがあれば、事実の記述を旨とする歌詞内容に鑑みて、同時に存在す る危険な相手について言及せずにおくというのは不自然に過ぎる。重要なのは「場所」 である。 要是真的有危險人物存在,有鑑於這是以事實陳述為宗旨的歌詞內容,隻字未提同時間存 在著危險人物這點實在不自然,因此,重要的是「場所」。  そして、その場所の有する危険性というのは、歌詞以前に、「お嬢さん」と「くまさ ん」が出会う以前に、用意されていたのである。 而且,場所具有危險性指的是,在歌詞之前,在「お嬢さん」和「くまさん」相遇之前就 已經存在。  ならば、その「お嬢さん」にとって「危険な場所」といかなるものか。 既是如此,那個「お嬢さん」而言的「危險場所」到底是什麼呢? 森の中であるから、たとえば「崖っぷち」や「人食いアリの巣」というようなものも考 えられるが、これは決してそのようなスタティックな危険ではない。 既然是在森林裡,大家會想像可能是像「懸崖邊緣」或「食人蟻的巢穴」這樣的地方,但 這個危險指的不可能是像這樣靜止的地方。 なぜなら「お嬢さん」は「スタコラサッサ」と走って逃げているからである。 為什麼這麼說呢,因為「お嬢さん」是三步併作兩步快速逃跑。 もし、そのような静的な危険物であれば、ゆっくりと歩み去るだけでよい。 如果是像這樣子靜止的危險物,那麼只要慢慢走開即可。  これはもっとダイナミックな、時間とともに危険が急激に増大しつつあるような場所 であったとしか思われない。 我認為這個危險應該是更動態、隨著時間危險會急速擴大的這類的場所。 たとえば先日、とあるキャンプ場であった悲惨な水難事故のように、「お嬢さん」は豪 雨の中で川の中洲に立っていたのかもしれない。 例如前些日子在一個露營場發生的悲慘水難事故,「お嬢さん」可能因為豪雨而受困河川 沙丘上。 あるいは雷鳴とどろく中、巨木の下で雨宿りをしていたのかもしれない。 或者可能是雷電交加之際在大樹下避雨。 しかし、無論これらは陥りがちな誤りとして例示したのである。 不過,這些當然是舉例一些充滿陷阱的錯誤。 第一、「お嬢さん」がいたのは「花咲く森の道」であるし、歌詞には悪天候に関する記 述はない。 第一,「お嬢さん」所走的是「開滿花的森林道路」,歌詞中並未說天氣很差。  なら時限爆弾のようなものであればどうか。 那麼如果是定時炸彈這類的東西呢? 特に矛盾はないようだが、一体誰が森の奥深くに爆弾を仕掛けたりするというのか。 聽起來沒什麼矛盾之處,但究竟是誰在森林深處放置炸彈呢? 動機の点から考えても時限爆弾説はありえない。 從動機來看,定時炸彈這個說法也不可能。 では、それが不発弾であったとすればどうだろう。 那麼,如果是未爆彈呢? 「お嬢さん」は森の中で見つけた不発弾を目の前にして立ちすくんでいたと考えるので ある。 大家會認為「お嬢さん」發現一顆未爆彈就在自己眼前頓時呆住。 これはかなり有力な説のようにも見える。 這看來是非常可信的說法。 「いつ爆発するか分からない」というのは、走って逃げる重要な要因ともなる。 「不知何時會爆炸」這點成為逃跑的重要原因。  しかし残念ながら、これも誤りである。 但很遺憾,這個想法也是錯的。  それは先述した「ところが」の意味が根拠となる。 先前所提到的「ところが」的意思就是證據。 先に私は、「ところが」というのは「お嬢さん」にとっても「くまさん」の行動が意外 だったことを示していると述べた。 前面我曾提到「ところが」指的是對「お嬢さん」而言,「くまさん」的行動在她意料之 外。 もし危険が不発弾のようなものであれば、両者は並んで逃げればよいのである。 如果危險是像未爆彈這樣的東西,那兩個人一起逃跑就可以了。 「くまさん」は不発弾の処理に取り掛かろうとしていたと強弁できなくもないが、不意 に現れた「くまさん」がそれの可能な重装備であったとは考えられないし、たとえ重装 備かつ「くまさん」がベテランの自衛隊員であったとしても、一人でそのような危険な 作業に挑むことはあり得ない。 當然,硬要說「くまさん」也許正準備著手處理未爆彈也沒問題,但無法想像突然出現在 森林的「くまさん」會帶處理這類情況用的重裝備,就算「くまさん」帶著重裝備,而且 是經驗豐富的自衛隊員,還是不可能獨自一人處理這種危險狀況。  すなわち、「急激に危険の増大しつつある場所」とは、「お嬢さん」にとってのみ、 危険かつ一人で逃げるべき場所であったと考えられるのである。 意即,「危險急速擴大的場所」應該被理解為僅對「お嬢さん」而言,而且是應該一個人 逃離的場所。 そして、「くまさん」にとっては、本来「ついてくる」必要などない、いやむしろ「つ いてくる」ことを禁じられたような危険なのである。 再者,對「くまさん」而言,本來沒有「追過來」的必要,甚至說不定「追過來」這件事 是有危險而需要禁止的。  「くまさん」の視点からみれば、「お嬢さん」を逃がした後で(自分一人でできる) 危険の除去に努めなければならなかったのであろう。 從「くまさん」的觀點來看,「お嬢さん」逃走之後,他必須努力消除這個(自己一個人 可以完成的)危險。 あるいは、「お嬢さん」とは別方向に立ち去る必要があったのかもしれない。 或者是必須與「お嬢さん」分別往不同的方向逃跑。 それは、「くまさん」にとっては、あくまでも「お嬢さん」と同時に同方向へ逃げるこ とができるような「危険」ではなかったということである。 這是因為對「くまさん」而言,這個「危險」絕對不是可以和「お嬢さん」一起往同一個 方向逃跑的。 言い換えれば、その「危険」から逃げるにあたって、「お嬢さん」と「くまさん」が同 行しているところを他人に見られてはならない、ということでもある。 換句話說,可以解釋為逃離「危險」的時候不能讓別人看到「お嬢さん」和「くまさん」 在一起。  ここで「ところが」問題にもどるが、にもかかわらず、「くまさん」は「お嬢さん」 の後を追うのである。それもダッシュで追っている。 文章至此儘管又回到問題點「ところが」,但「くまさん」確實是在「お嬢さん」後面追 著她,而且是匆匆追著。  その理由は歌詞中に明確に記述されている。「お嬢さん」の落とした「白い貝がらの 小さなイヤリング」を渡すためである。 追上去的理由在歌詞中有明確描述,是為了歸還「お嬢さん」所掉落的「貝殼形狀的白色 小耳環」。  ではなぜ、同行を禁じられているにもかかわらず、「くまさん」はそれだけのために 「お嬢さん」を追いかけるのであろうか。 那麼,為什麼「くまさん」不顧得不能同行的事,而為了歸還區區一個耳環朝「お嬢さん 」追過去。 その理由もまた明白である。「同行していることを他人に知られる危険性」よりも、「 イヤリングを放置しておく危険性」の方がはるかに高かったためであろう。 這麼做的理由也清楚了。因為比起「同行被別人知道的危險性」,「耳環放在那裡的危險 性」更高。  「イヤリングを放置しておく危険性」も、たったひとつのことをしか意味しない。 「耳環放在那裡的危險性」也只意味著一件事。 それは、イヤリングが「お嬢さん」がそこにいた物的証拠となるという危険性である。 那就是耳環會成為「お嬢さん」去過那裡的證據,因此有危險性。 深い森を直近に持つ村のことである。海からは遠く離れているはずのその村で、「貝が らのイヤリング」など簡単に持ち主を特定されるであろう。 在這個離森林很近的村莊裡,在這個應該離海很遠的村莊裡,應該很容易就能鎖定「貝殼 耳環」的主人。  ここでようやく、「お嬢さん」にとって「急激に危険の増大しつつある場所」の意味 も明らかになった。 文章至此終於明白對「お嬢さん」而言「危險急速擴大的場所」的意思。 それは、「そこにいたことを他人に知られてはならない場所」かつ「その危険が刻々と 迫っている場所」ということなのである。 它代表的是,「不能讓別人知道她去過那裡的場所」與「危險正在時刻逼近的場所」。  では、これまで述べた「お逃げなさい」と「危険」について、整理してみよう。 那麼,關於「お逃げなさい」和「危険」,討論到這裡做個整理吧。 (A)「くまさん」は、何らかの危険から「お嬢さん」をかばおうとしている。 (A)「くまさん」在保護「お嬢さん」不陷於某個危險中。 (B)その危険は、「危険な場所」を意味し、その場所は「お嬢さん」と「くまさん」 が出会う以前に、用意されていた。 (B)這個危險意味著「危險的場所」,而這個場所在「お嬢さん」和「くまさん」相遇前 已經存在。 (C)「危険な場所」とは、「お嬢さん」にとってのみの、危険かつ一人で逃げるべき 場所である。 (C) 「危險場所」是只針對「お嬢さん」而言,危險且應該一個人逃走的場所。 (D)その場所から逃げるにあたって、「お嬢さん」と「くまさん」が同行していると ころを他人に知られてはならない。 (D)當逃離那個場所的時候,「お嬢さん」和「くまさん」不能被其他人知道他們在一起 。 (E)その場所は、「お嬢さん」にとって「そこにいたことを他人に知られてはならな い場所」である。 (E)那個場所對「お嬢さん」而言,是「不能讓別人知道她去過那裡的場所」。 (F)その場所は、「お嬢さん」にとって「そこにいたことを他人に知られる危険が刻 々と迫っている場所」である。 (F) 那個場所對「お嬢さん」而言,是「讓別人知道她去過那裡就即刻會有危險的場所」 。 -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc), 來自: 111.252.132.142 ※ 文章網址: https://www.ptt.cc/bbs/NIHONGO/M.1427027300.A.C9B.html

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推 很有趣!
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これについても、呼びかけのみならず、
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三人称においても用いられているさん付
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けが手掛かりとなる。
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關於這點,撇除打招呼這句不看,作者在
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第三人稱也使用「さん」,這是個線索。
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03/26 09:39, , 7F
呼びかけのみならず、 這句應該是 不只
03/26 09:39, 7F

03/26 09:39, , 8F
是對人稱呼 這樣翻才對
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文章代碼(AID): #1L3hLaoR (NIHONGO)