[合掌] 江藤慎一去世

看板Chunichi作者 (實況十四打擊苦手)時間16年前 (2008/03/03 06:19), 編輯推噓3(301)
留言4則, 4人參與, 最新討論串1/1
事實上這是2/28的新聞了... http://www.chunichi.co.jp/article/sports/news/CK2008022902091393.html 江藤慎一氏死去 中日主砲、セ・パ首位打者 2008年2月29日 朝刊  プロ野球の中日、ロッテなどで強打者として活躍し、史上初めてセ、パ両リーグで首 位打者になった江藤慎一(えとう・しんいち)氏が28日午後3時38分、肝臓がんの ため東京都内の病院で死去した。70歳。熊本県出身。葬儀・告別式は3月5日午前1 0時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は三女忍(しのぶ )さん。葬儀委員長は渋沢良一元セ・リーグ事務局長。  熊本・熊本商高から社会人の日鉄二瀬を経て1959年に中日に入団。64年から2 年連続で首位打者に輝いた。71年にはロッテで首位打者となり、史上初めて両リーグ での首位打者獲得を達成した。大洋(現横浜)でもプレー。75年に移籍した太平洋( 現西武)では兼任監督も務めた。  気迫をむき出しにするプレースタイルから「闘将」と呼ばれ、オールスター戦に11 度出場し、ベストナインにも6度選出された。セ、パ両リーグの全12球団から本塁打 もマーク。現役18年間の通算成績は2084試合に出場し、打率2割8分7厘、20 57安打、367本塁打、1189打点。76年にロッテで現役を引退した後、85年 には「日本野球体育学校(江藤野球塾)」(静岡県)を設立。91年に業務提携した社 会人チームのヤオハンを2度、都市対抗大会出場に導いた。 ◆勝負強さ光る「闘将」 セ・パ4球団渡り2057安打  28日に死去した江藤慎一さんは、気迫あふれる姿から「闘将」と呼ばれた。  中日では11シーズンにわたって活躍。1954年に初めて日本一になったときのエ ース杉下茂さん(82)が、監督に就任した59年に江藤さんが入団してきた。「ちょ うど大打者西沢道夫さんが、抜けた直後。打力を生かすため、捕手で入ってきたが、一 塁に転向させ、さらに外野飛球を捕る練習をさせた。すぐに5番打者として起用し戦力 になってくれた」と話した。  杉下さんの監督時代、米大リーグ、レッズをまねて袖なしユニホームを着用したこと があった。その当時を思い出し、「ノースリーブのユニホームは体が小さかったり、細 い選手には似合わない。一番似合ったのが体の大きな江藤だった」という。  杉下さんは現在、中日の沖縄キャンプに参加し、若い選手たちにアドバイスを送って いる。「自分より若い人が先に逝っちゃうのは、本当にさみしい」と悼んだ。  一方、中日の元監督中利夫さん(71)は現役時代、中堅・中、左翼・江藤のコンビ で外野を守った。俊足で知られる中さんと違い、江藤さんは大型選手。「捕手で入団し 、打力を買われ外野手に転向した人。のしのし走るというタイプだった」と当時を思い 起こした。  攻撃は中さんが塁に出て、江藤さんら主軸で点を取るパターン。「豪快な打撃で、勝 負強かった。外角の球でも強引に引っ張る打者。内角球は力でポテンヒットにしていた 。だから2年連続首位打者に輝いたんだと思う」と振り返った。 ◆「野球の師だった」実弟の省三さん  江藤慎一さんの実弟で野球評論家の江藤省三さん(65)は「自分に野球を与えてく れた」と故人をしのんだ。省三さんによると、慎一さんは5年前に脳卒中で倒れてから 入院生活を続け、その間にがんを患ったという。  省三さんは高校1年の冬に熊本商高から愛知・中京商高(現中京大中京高)に転校。 慶大を経て巨人に入団した。「兄貴というより、野球の師だった」と語った。 ◆長嶋茂雄氏「寂しいなぁ」  ■長嶋茂雄・元巨人監督の話…「どんぐり眼」に「分厚い胸板」で、袖なしのユニホ ームがよく似合っていた。性格は豪快でさっぱり。力いっぱいのフルスイングが目に浮 かぶ。野球一筋で、ほかのことには無頓着。もういなくなった昔タイプの野球選手だっ た。寂しいなぁ。 -- 又走了一位名將阿..... ご冥福をお祈り申し上げます。 -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc) ◆ From: 220.132.76.105

03/03 10:39, , 1F
R.I.P
03/03 10:39, 1F

03/03 14:14, , 2F
r.i.p
03/03 14:14, 2F

03/03 14:51, , 3F
RIP
03/03 14:51, 3F

03/16 21:35, , 4F
R.I.P.
03/16 21:35, 4F
文章代碼(AID): #17ooVOb_ (Chunichi)